緊急対策の先にあるもの。
~ピンチをチャンスに変える、復興のビジョン~(ゆりコラム番外編)

わたしは福島県の中通り地方の出身で、中学・高校時代を福島市で過ごした。いまも、母と親戚・友人の多くが県内に住んでいる。天災だけでも未曾有の被害なのに、原発という人災が重なった故郷の状況に、日々、無力と焦燥に苛まれている。
 しかし、各町村長の、難局にあっても、住民を思うスジの通った発言や、被災者の方の、人としての節度を保った冷静な態度を見聞きするたびに、元福島県民であることを誇らしく思う。

一昨日、地元・郡山で避難地域からの母と子を助けるボランティア活動をしている友人から、メールを受け取った。
「同じ被災地でも、岩手県や宮城県と、福島はかなり状況が違うように思います。阪神大震災のボランティアを経験したときとも違うのです。希望に向かって、もう一度、街を復興させようという空気がなく、本当に重たく、光が見えてきません…」
地震から半月が過ぎようとしているのに、かくも福島は、先の見えない暗闇のなかである。失われた生命や家財の大きさに加えて、いまの状況がいつまでつづき、これからどうなるのかの予想が不可能で、みずから決定できる選択肢がないことが、絶望と閉塞感に追い打ちをかけているのだと思う。不安だらけのまま、現状を「しのぐ」しかないのだ。

もちろん、国や県にとって、緊急の被災対策や安全対策が最優先事項であることは議論の余地がない。原発についても日々刻々、臨機応変な対応が迫られている。避難行動は、原発から何キロメートル圏内という、デジタルな同心円での線引きだけでなく、放射線量の慎重なモニタリングを行ったうえで、町や村などがまとまって行動できるように、コミュニティごとの生活基盤と助け合い、情報の伝達機能を温存するように努めてほしい。また、早急にJAS法を再改正して、農作物を「福島産」と大雑把にくくるのではなく、村落・地区、あるいは畑単位での、きめ細かな安全確認と安全表示ができるようにして、すべての「福島産」の農産物が十把一絡げに、マーケット・ルートから締め出されないような配慮をしてほしい。

そして、これらの緊急対策に全力を注ぐ一方で、「いま」をしのいだ、その先のことを考えていく「復興のビジョン」作りを、誰かが始めておくことが必要なのではないだろうか。いま表に出さないにしても、長期戦を覚悟したうえで、「攻め」と「守り」の役割分担をするのである。
ここ数年の、首都圏での福島ブランドの販売事業は注目を集めていた。都内で開かれた日本酒や、アスパラガスの試食会は大盛況だったと聞く。「ふくしまブランド」の創設が軌道に乗りかけてきた矢先の被災である。いままでの努力は、一見、断ち切られたように見える。しかしそうではないはずだ。

3月24日に福島市内で開かれた放射線についての講演を聞いた友人が、演者のひとり「WHO緊急被ばく医療協力研究センター長・長崎大学大学院」の山下俊一先生が、次のような言葉で話を結んだと教えてくれた。
「これから福島という名前は世界中に知れ渡ります。これは凄いですよ。もう、広島・長崎は負けた。福島の名前の方が世界に冠たる響きを持ちます。ピンチはチャンス。最大のチャンスです。何もしないのに福島、有名になっちゃったぞ。これを使わん手はない。何に使う。復興です」と。
この言葉には、住民を励まそうというリップサービスの側面が大きいと思う。そもそも、勝ちとか負けとかの話ではないだろう。
しかし、広島の牡蠣や、長崎のカステラの放射線濃度が心配だなんていう人は、いまやどこにもいない。それは、年月の経過のせいばかりでなく、広島や長崎の人たちの不断の努力の結果にちがいない。
好むと好まざるとにかかわらず、人類史に残るクライシス・フラッグが立ってしまった福島に、いずれ、考え抜かれた、シンプルな復興戦略が必要になることは、火を見るよりも明らかである。

誤解を恐れずに、思いつきを書いてしまうなら、野菜についていえば、市町村ごとに厳密な検査をしたうえで、『RADIO-FREE (放射能なし・吉田の造語)-FUKUSHIMA』や『ATOMIC-FREE (吉田の造語)-FUKUSHIMA』などという、農産物ブランドを立ち上げるなど、風評を逆手にとって攻めていくやり方はどうだろうか。
観光でいえば、県内に別の開催地を見つけて『復興のための野馬追(のまおい)』を実施するのはどうだろうか。とはいえ、相馬地方で飼育されていた馬たちの行方についてのニュースに、大震災以来、わたしは一切触れることができていないのだが…。
これらは、精査のない、単なるアイデアの端緒にすぎない。しかし、地に足のついた復興のビジョンは、全力で知恵をしぼれば、きっと見つかる。

毎年、春になると故郷から届く、ふきのとうやタラの芽、こごみなどの山菜を受け取る喜びを、今年は味わうことができないのだろう。しかし、それは、もういい。その手のささやかなしあわせについては、いまはもう考えないことにする。

大切なのは、悲しみを、これ以上大きくしないことである。
長期戦でもめげないこと。立ち直ること。そして、復興のビジョンをもつこと。
しゃくなげ匂う福島は、人類史上まれにみる事態に直面し、『ピンチをチャンスに変える!』使命を、いまや、いやおうなく持たされてしまったのである。

♯14 YURI wrote:2011/03/24

いま、なぜ、トラベルミン?

花粉症のシンパイをする心の余裕をなくしていたらしい。「鼻に塗るマスク」のチューブを切らしていた。     
3.11以後はじめて、駅前の大型薬局に立ち寄る。「鼻に塗るマスク」はたしか、レジ前のいちばん目につく場所に陳列されていたはずだ…。      
だが、商品の入れ替えがあったのか、いちばん目立つ場所に並んでいるのは、花粉対策グッズではなく、
「トラベルミン」「センパア」「パンシロントラベル」などの、旅行用・乗り物酔い商品の一群である。

バス旅行が流行っているのだろうか。
被災地に向かって運行を開始した高速バスの乗客向けか?という思いつきが、一瞬、心をよぎると、心臓がきゅんとなる。これほどの災難を目の当たりにしても、日常の仕事を繰り返しているだけで、直接的に何も被災地の役に立っていないことへの良心の呵責…?こんな私と違って、バスで揺られて、被災地でのボランティア活動に向かう心やさしき若者が、そんなに多いということだろうか。いや、まさか…。

それにしても、なぜ「トラベルミン」なのか。この時期、乗り物酔いの薬が、最前列に大陳列というのは、なんとも不自然にすぎるだろう。              
会計しながら「トラベルミン、売れるんですか」と、聞いてみる。    
「そうなんですよ。めまいがする~~というお客さんが多くて」と、店の人がニコニコと答える。     

最初、イミがわからなかった。
ポカンとしていると
「なんだか体がゆらゆらするから、なにかお薬をちょうだいって言って来られるお客様が多くて」との説明。 
「ああ、地震酔い?!」ようやく気づく。      
「病院に行ったんだけど、お薬出してもらえなかった、というお年寄りがけっこういるんです」 
「わたしもしょっちゅう揺れてる」と、うなずく。     
「僕もずっと揺れてるんですよね」と、店の人もがぜん神妙な顔になる。

確かにそうだ。最近、だれかと話すと、口々に似たようなことを言う。     
「あ、地震だと思って観葉植物見るんだけど、ぜんぜん揺れてないんだよね」みたいなことを、異口同音に。      
心臓に軽い疾患のある知り合いのご婦人は、自宅のトイレの便座に腰をかけたところで、あの揺れに見舞われたそうで     
「こんどまたあんな揺れがきたらと考えるとドキドキしちゃって。あの日からトイレに行くのがこわくて。トイレ恐怖症になっちゃったワ」と言っていた。      
たしかにわたしも、先日高速を横浜から羽田まで東京湾沿いのルートを走りながら、いままた地震が来たら…と思ったとたん、手のひらがぐっしょり汗ばんで、ちょっぴり息苦しくなったっけ。
そうか、あの巨大な揺れを経験した多くのひとが、いまなお、巨大な船酔いのような「地震酔い」のなかにいる。なにしろ、余震もまだつづいているし、夜中に下からつきあげられるような揺れが突然ドン!とくる瞬間は、気持ちのいいものではない。          
被災地の方の喪失感には比べようもないが、3・11のぐらぐらを境にして、わたしたちの日常もまた、ふらふら揺れているのだった。いずれ「3・11以後」と呼ばれる時代が、不思議なふらつきとともに始まっている。そのうえ、福島第一原発で繰り広げられているのは、本質の見えにくい「奇妙な戦争」ときている。

いずれにしても、もしあなたが、トラベルミン買おうかな、と思っているのなら、その「めまい」のような感じは「地震酔い」ですよ。体調の問題ではありませんよ。
みんな、おなじよ。大丈夫!!

♯13 YURI wrote:2011/03/22

プールに水を溜める。(福島原発)

小学生の頃、夏が近づくと、全校生徒で、プールを掃除する日がありました。
掃除が終われば子どもたちはお役御免。教室に戻って、いつもの授業が始まります。

体育の先生が、きれいになったプールに、太いビニールのホースで水を溜めるのですが、
みるみる水が溜まってしまう、おうちのお風呂とは大ちがい。
“いつになったら、いっぱいになるんだろう…”とジリジリ心配しながら、
教室の窓から、日がな一日プールを見下ろしていた記憶があります。

ふくしまのゲンパツが心配です。
警視庁と、自衛隊と、東京消防庁による決死の放水作業がつづいています。
いったい、使用済み核燃料貯蔵プールに水は溜まっていっているのでしょうか…。

いま、“ふくしまのゲンパツ”と書きました。
けれど、これは単に“ふくしまにあるゲンパツ”という意味なのであって
“ふくしまのひとのゲンパツ”ではありません。

ふくしまのゲンパツは、40年も前からコトコトと、首都圏に住むひとのために、
ふくしまで、電気をつくりつづけてきたゲンパツです。

わたしたちの夏の食卓を彩る、ふくしま産のきゅうり、トマト、さやいんげん…
みずみずしい、むきたての桃、なし、りんご…
ほかほかに炊きあがったごはん、ひとめぼれ、ふくみらい…
可憐なキク、りんどう、かすみそう…
太平洋の魚、広々とした牧場育ちの肉、そして阿武隈高地の牛乳…

そんなふくしま産の食材とおなじように、
あたりまえに、首都圏に住む人間が、毎日、『お召しあがりになって』きた
おいしい、ふくしま産の電気…。

ゲンパツからの避難地域が拡大し、物資の供給は滞り、野菜と牛乳の出荷制限が出ています。

ゲンパツによって、地元の町がまったく恩恵を得なかったとはいえないでしょう。
しかし、わたしたち(東京電力の管内の人)が使う電気をつくるゲンパツが、なんの関係のないふくしまのひとたち(東北電力の管内の人)を苦しめている。
長年、首都圏で暮らしてきたわたしは、その事実をいま、厳粛な気持ちで受けとめています。

♯12 YURI wrote:2011/03/20


未練はない、ゴー!
♯7 wrote::2010/10/31

忘れんぼクイーン。
♯6 wrote::2010/10/24

ごめんくだシャイ。
♯5 wrote:2010/10/16

鰐とおばあちゃん。
♯4 wrote:2010/10/04