六本木、みずほ銀行(その1)。

10月31日。朝いちばんに、六本木で用事をすませてから、次の移動まで少し時間があったので、六本木通りのみずほ銀行に立ちよることにした。月末だし、通帳の確認をしようと思ったのである。
足を踏み入れると、なんだかワサワサした雰囲気。
ATMコーナーは、完全にディズニーランドのウェイティングスペースと化している。太い縄紐で仕切られた進路が幾重にも折り返されたなかを、たくさんの人が行ったりきたり、行列中。
こういう状況を目にしてしまうと、むしろ並ばなければ!という気持ちになるのが、なんとも悩ましい。

ふと見ると、通帳記帳機の前にどどーんと、以前一緒に仕事をしたことのあるCM制作会社のプロデューサーTさんの大きな体が陣取っている。おしゃれなビジネススーツを着た女性と肩をぶつけあって、印字を待ちながら、おもいっきり談笑中である。
クライアントの本社移転などがあって、仕事の縁は途切れてしまったが、あの長めの髪形は、まちがいなくTさんだ、懐かしいな~と思いながら、チラチラふたりの様子をうかがっていた。
ご機嫌に記帳中のところを見ると、いろいろとうまくいっているんだろう~なんて、いつのまにか、他人のお財布の中身を想像しているわたし。

その瞬間、後ろからポンっと肩を叩かれる。
ひとのお財布のことを考えていた矢先でもあり、ビクッとして振り返ると、出現したのは誰あろうNさんのシワクチャな笑顔である。むかしの会社の先輩で、いまは別の広告会社で活躍中のNさん。シワこそ顔いっぱいに増えてはいるが、人懐っこい笑顔は健在である。
「やっぱり、ゆりじゃん?元気そうだな~。そうそう。おまえいま、○○と仕事してるんだって?」
と、共通の知り合いの名前がポロポロと出てきて話がとぎれないのが、むかしなじみのいいところ。
うれしくなって、さて話そうとしたところで、行列の移動が始まって、N先輩とは生き別れに……。

あれよあれよという間に、あと数人でわたしの番、というところまで迫っている。ありがたいことに、予想より行列の回転が速いようである。
じぶんの順番なのに、ATMがあいてることに気づかなくて、まわりから無言のブーイングを受けている人をたびたび見る。そんなトロくさい状況にだけは陥りたくない。ここは、コンセントレートが大切!と、並んだATMの方におもいっきり気持ちを集中させていると、ひとりのステッキをついた御婦人が、絵にかいたような「横はいり」をするところに出くわした。

「いいの、いいの。あたしは記帳するだけだから」
といいながら、列の出口の方から逆向きにすいすいっと機械に近づいて、長い順番待ちの果てにATMに歩み寄ろうとしている、いかにも気の弱そうな男子を迫力で押しのけて、チャチャッと記帳をすませてしまう。
彼はいかにも日頃から、先輩の横暴に慣れているデザイナーの卵と言う感じで、マゾ丸出し。
言葉もなく立ちつくしている丸い肩。新品でポップなメッセンジャーバックが、むしろ哀れをさそう。

ステッキをついた奥さまは、その棒はアクセサリーですか?と尋ねたくなるほどの機敏な動作である。
記帳をすませると「ほほ。ありがと!」とあたりまえのように胸を張り、ステッキを器用に操って、大股でのしのしと退場していく。
これでよかったんだ、とその場にいた全員が思ったことだろう。

そのとき気がついた。なんと、その横顔は、以前、生け花の修行をしていた頃に、何度か大使館のパーティーで顔を合わせたことのあるR夫人であった。
当時はステッキをついてはいなかったし、いつもたくさんの取り巻きに囲まれていた。今日のような着崩した洋装ではなく、オーセンティックな和服姿ばかり見ていたので、おなじ人だとは思わなかった。
たしか、ご主人が芸能関係の仕事をしていて、業界にたいへん顔が広いという噂であった。
だれかのお花の展覧会に、着物姿の女優さんをともなって現われたR夫人のキャピキャピした姿が、脳裏にまざまざとよみがえった。

とびきり親しい相手ではないにしても、まるで風景のようにいきなり3人も知り合いに出くわすなんて……と、目を白黒させているうちに、順番がくる。躊躇なく、あいたATMに瞬速移動。この速度感なら、だれもブーイングしたりはしないだろう。

それにしても、1回のATMで、いっぺんに3人の知人に会うことなど、ふつうありえない。
銀座通りのみずほ銀行でも、知り合いの多い青山支店でも、事務所のある都立大のATMでも、地元の船橋支店でも、このような偶然は、かつて経験したことがない。

六本木はいままで、勤めたことも、事務所を持ったこともなかった。
高感度でインターナショナルなこの街は、わたしにとって、いつもあきらかにアウェイな場所であった。
単発の撮影があったり、クライアントやテレビ局との打合せに来ることはあっても、何日かつづけて通った回数の少なさでいったら、池袋と双璧。おそらく、同率1位ではなかろうか。

お隣りの麻布台には、ムスメを出産した病院があるので、検診の行き帰りには広尾の街に立ち寄って、ロバーツのソフトクリームを舐めたりしたものだが、隣り街とはいえ、ここ六本木には、そんな行きつけのお店さえひとつもないのである。

なのに、不思議なものである。広告業界で仕事をしてきた20数年という時間が、高い敷居にカンナをかけてくれたのか、かつてアイコンの街だった六本木が、風景みたいに知り合いの行きかう、ごくごくふつうの街になっている。
なにしろ「ATM1回あたり=知り合い3人」である。仮にこの街の小学校の卒業生でも、ここまでの高率ではないだろう。

業界人のお庭である、“ギ・ロッポン”が、こちらを跳ね返そうと牙を剥くのではなく、なにげないウェルカムな表情で、ほほ笑んでくれているような気がする。これこそが、街に受け入れられる幸せなのかもしれない。

ATMを立ち去る前に、N先輩にもう1度挨拶しようと思って近づくと、行列に並びながら、すでに携帯でシビアな話が始まっている。まちがいない、怒ってる。
テンパるとすぐに切れて、アシスタントが次々にやめていった若い頃のNさんを思いだしながら、これはまずいと、そそくさと、その場を後にする。

六本木通りに出たとたん、突然携帯の着信音が鳴った。神奈川県のはずれの街にあるお花やさんからの電話で、今日入金できなくてごめんなさい、というのである。
先日、取材の帰りの通りすがりに立ち寄ったその店で、わたしはうっかり1000円多く払ってしまったようで、今月中に入金しますから、口座番号を教えてください、という電話をもらっていたのだった。
「いま、銀行に来てるんですけど、行列がすごく長くて……」
花やさんの声は、聞き取れないくらい小さい。あきらかに困っている。

「そもそもわたしのミスなんだから、入金なんていつでもいいですよ。気にしないで」
わたしは、内心、六本木から“グリーンカード”が出た記念に、1000円はあなたにあげるから、もらっちゃいなさ~い!!と叫び出したいくらいの気分だったのだが、浮ついた言葉をぐっと飲み込んで、低い声でそういった。
「あした入金しますから」と繰り返す花やの若い女性に「いつでもいいのよ」と、こみあげてくるうれしい気持ちを飲みこみながら、落ち着いた声でそう答えた。

♯30 YURI wrote:2011/11/03

どこがクールジャパンだ (ゆりコラム番外編)

仕事で九州に行った。さほど多くの人と話をしたわけではないが、やはり大震災と原発事故の問題となると東北との温度差は否めない。

乗りあわせたタクシーの女性運転手さんが「夫の勤める薬品工場は毎晩、残業の連続。もう何カ月も休みがとれなくて…」と嘆いていた。福島と九州に工場があるが、福島でつくった製品は引き取り手がつかず、九州では増産体制をとっているという。
この話が本当だとしたら、あきらかに科学的な根拠のない風評である。安全の確認された原料を使用し、空調設備の整った工場で製造し、しっかり検品した化学薬品に、どうしたら放射性物質が混入するというのだろう。

その翌日、大阪府が発注した架橋工事で、郡山市の会社がつくった橋げたを地元の住民が「放射能汚染が不安」と搬入を反対し、府が工事を中断したという事件を新聞で知った。
食品については風評に100%根拠がないとは言い切れない現実が横たわっている。だからこそ、食品安全検査の果たす役割が非常に大きい。
だが、問題にされているのは、クリーンルームで生産された化学薬品と、塗装された橋げたである。

風評被害とは、正確な情報を得られない人間が陥る疑心暗鬼のことだ。風評を起こす側に作為的な悪意がない場合もある。
しかし、わが国は技術の国である。クールなジャパンはどうした? 
ここまで非科学的で感情的なとげが国内にまん延している。国が間に立って手当てをしないことには、国民の幸福は守れない。例えば「風評被害防止法(仮称)」が必要なのではないか。

法律制定は、より幸福なシステムをつくろうという意思表示であり、約束である。実感を言うなら、約25年前の「男女雇用機会均等法」によって女性がどれほど生きやすくなったか、肌身に染みて知っている。若い頃は法律なんて夢がないと思い込んでいたが、実は世の中に意思を吹き込むことができる。 

福島県民の身を引き裂かれるような苦悩を少しでも解消する約束が必要なのだと思う。「風評被害防止法」は、生産・流通・観光現場での被害はもちろん、福島県出身を理由にした結婚の破談を禁止するという詳細な内容にする。情けないこの国の現状をリセットするには、ここまで手が掛かるということだ。

県内の全ての子どもを対象に甲状腺検査が先月始まった。安心すると同時に、一切の不利益があってはならないと感じる。だから(1)検査の結果が個人情報として守られる(2)世界のどこに居住していても受けられる(3)検査のための休暇は職場で有給扱いになる(4)受診が、あらゆる場面(就職や民間の生命保険の加入時など)で不利に働かないようにする―を盛り込む。未来を想像して、彼らの権利を守っていく責任がある。
このような細かな配慮の行き届いた「風評被害防止法」によって、福島の産業と子どもたちに降りかかる災禍を減らす。起きていない被害への抑止力になることも期待したい。

この非科学的な無法状態を放置するのなら、とうてい、この国を「クール」などと呼ぶことはできない。  

♯29 YURI wrote:2011/10/14(※本稿は福島民報社のために書き下ろしました。著作権等は同社に帰属します。)

たいそう温かな日曜日。

81ヵ国の選手が参加した、世界体操の最終日。
“体操競技の花”男子鉄棒をはじめとする、男女5種目の決勝が繰り広げられた。
2日前の女子個人総合にひきつづいて、千駄ヶ谷の東京体育館に足を運ぶ。
今日は韓国の国歌が1回、中国のが3回流された。
最後までこの2曲だけだったりして…と、内心少し焦ったが、最終的にアメリカとロシアの国歌も1度ずつかかる。
いたずらに昔を懐かしむわけではないが、数々の体操の国際大会で耳になじんだルーマニアやブルガリアやハンガリー、そして日本の国歌が聴けないのは、なんとなくさみしい。
いや、わたしだってなにも、時代遅れのナショナリズム満開で観戦していたわけではない。
技の難度、切り返し、ひねり技の高度化、緩急の見事さは、息を呑むばかり。
でも、こんな風に書き出したい気分が、ふつふつ湧いてきてしまったのはなぜだろう?

その理由はおそらく、会場の空気があまりにも優しかったから。
男子個人総合チャンピオン内村選手の鉄棒の演技の完成度の高さに会場中が大歓声に包まれ、しかしその結果がライブの印象値を下回る3位どまりだと知ったとき、ほんのわずか、1秒くらい、会場中が「え~っ!!」っという嘆息に包まれたが、そのまた1秒後には、ワン・ツーフィニッシュとなった中国の2選手に対して、温かすぎると表現してもいいほど温かな拍手が、会場中からふりそそいだ。

日本の沖口選手が3位になった跳馬の演技でも「沖口、惜しかったね~」などという嘆息は、近くの席から聴こえてこない。金メダルを獲った韓国のヤン選手が新技を決めてつきあげるガッツポーズに、会場中が惜しみなく、そして割れんばかりの拍手である。

女子の平均台で、中国の新星といわれるスウィ・ルー選手が着地を決めた直後の拍手の瞬間風速はMAXであった。演技について、その見事さにバイヤスをかけることなく、素直に称える観客の背筋のまっすぐさ。
各国の応援団がここを先途と、自国の選手だけに回りの見えない熱烈な声援を送るなか、スポーツの中立性を貫こうとする、ホスト国として完璧なホスピタリティ…。おもてなしの精神…。
諸外国で開かれる国際大会では、なかなかこういった雰囲気は生まれないものである。自国びいきの観客のブーイングで試合の進行が妨げられたり遅延することが、実際しばしば起きている。

だから、この国では、ホームタウンデシジョンは期待できない。
男子平行棒の演技の終了後に、アメリカ人のコーチが大感激してピョンピョン跳ねて飛び回るアピールはすさまじいものであった。技の難度もさることながら、これがリーバ選手の金メダルに全く影響を与えなかったとは考えにくく、選手の背中に近づき、健闘を称えてそっと肩に触れる日本人コーチを見るにつけ、日本人ってほんとうにいい人ぞろいなんだなぁ…と、いまさらながらつくづく思う。
大人な観客を認めながらも、ほんのちょっぴりため息をつく。

そんな会場の中に、浮足だった日本の若男子が2人、まぎれこんでいる。
席の位置と角度のせいで、わたしからは顔が見えないのだが、声の感じは高校生か大学生。たぶん体操部。声を枯らすこともなく、出場選手に向かってひたすら野太い声を飛ばしつづけているのである。
演技開始前から始まり、演技中もずっと通しで。大声で。
たとえば、ドイツのファビアン・ハンブュッヘン選手の鉄棒の試合では…
「行ける行ける、ファビアン!」
「いいよいいよ、ファビアン!」
「オッケーオッケー、ファビアン!」
と、呼びかけはファーストネーム。フレンドリーなタメ口で、叫びっぱなし。
場内がしーんと静まりかえった倒立の静止姿勢のさなかでも臆することなく
「動くなよ~、ファビアン!」
こんな体育会丸出しな絶叫は、応援なのかヤジなのか、わかったものではない。

地元の高校総体の会場では、このような暴挙が許されるのかもしれないが、
「ファビアン、つかめ!おちついていけ~よっしよっし、行けるよ!ファビアン~」
こんな野太い声が、演技のあいだじゅうつねに響きわたっているのでは、言葉がわからないドイツのファビアン選手も、この見知らぬ日本人の応援的ヤジに、さぞかし気が散ったにちがいない。
言葉の意味が耳に入ってしまう日本人選手なら、なおさらだろう。

女子選手の演技のときは気を使うのか無言を通していたが、男子の演技中は、最初から最後まで、アントンにも、レイバにも、フィリップにも、ジャンチェンロンにも、つまり全選手に対して、叫びっぱなしの2人であった。

もしわたしがジャーナリストなら、個人チャンピオンの内村選手は他の記者に任せて、彼らに試合後のインタビューを申し込むだろう。選手と同じ年頃の彼らに、
「選手全員と友達なの?」
「今日は一日中、どんな気持ちで叫んでいたの?」
と、素朴な質問をぶつけてみたい。あの温かで穏やかすぎる会場のなかで、彼ら2人だけが、したい放題・やりたい放題炸裂の日本人だった。できれば、彼らの本音が知りたい。

表彰式も終わり、大会最終日が無事終了。
3月のフィギュアスケート世界選手権は開催中止になり、その後、あろうことか日本サッカー協会は、7月のコパアメリカの出場を辞退。そんな2011年の秋の東京に、世界中からアスリートがやってきてくれた。ありがたい…と、閉会セレモニーが行われているあいだ、しみじみ思う。

東京体育館の前の広場に出ると、高校生や大学生のグループが、大会の余韻に後ろ髪を引かれるのか、あちこちでたむろっている。
それを見ているうちに、ふと、大学1年のときに代々木第1体育館で開催された「ワールドカップ体操」の最終日のことが思い出された。
遅い夜だった。閉会式がすんだのに、わたしは会場から帰りがたくて、原宿駅から帰る友人らと別れて、ひとり代々木の森の方角へ向かった。その頃住んでいた幡ヶ谷まで、大会の余韻にひたりながらのんびり歩いて帰ろうと思ったのである。
ちょうどそこに、一人の外国人選手と若いコーチが通りあわせた。ついさっき、まるで重力を無視したかのようなデルチェフ宙返りを見せてくれたご本人が、突然目の前に現れたのだった。演技に感動したことを、英語と身ぶり手ぶりで伝える。すると
「応援ありがとう。これからブルガリア大使館で、偉い人がごちそうしてくれるんだ」
と、予想外に子供っぽい笑顔が返ってきた。
そのときだった。体育館の内外に灯っていた蛍光灯が、まるでバチッバチッと音のするような激しさで消灯し、あたりは闇に包まれた。その突然の暗転に、彼の笑顔がどんなにあどけないものだったとしても、死線をくぐりぬけてきた帰還兵の余韻は、わたしのような傍観者のノンベンダラリとした余韻とは、まったく違うのだろうと感じた。

30年の月日が過ぎたのに、いまだに、傍観者のままだなぁ…と思う。
夏の戻りの生ぬるい風が吹いている。
早足で体育館の広場をつっきって、わたしはすぐそこの千駄ヶ谷駅に向かった。

♯28 YURI wrote:2011/10/17

グイッ!と、ファイト何発?

「ゆりさんは休めるの?」
打合せが終わった金曜夜の別れ際、一緒に仕事をしている営業のAさんに聞かれた。
ああ、連休。休めるような。休めないような。加圧トレーニングには行くけど、仕事はたまってる。
あいまいな返事をしながら首をかしげていると
「元気だねぇ」
と、ちょっとあきれたように笑われる。

そんなあいまいな感じで突入した3連休が、あっというまに終わりかけである。
3連休の3日めの10月10日が、久しぶりに体育の日だった。ほかの祝日はハッピーマンデーで結構だが、体育の日は10月10日でなければ、辻褄が合わない。そもそもハッピーマンデーだなんて、いかにもお役人的な発想である。いや、いいたいことは山ほどあるが、この話はここまで……。
いまわたしがしたいのは、制度の「齟齬(そご)」の話ではなくて「祖母(そぼ)」の話なのだ。

さて、今日10月10日は彼女の21回めの命日である。彼女というのは、本コラム第4話にもご登場願った、“ワニ遣いのおばあちゃん”のことである。
料亭の女将として忙しい毎日を過ごしていた祖母の口癖は「ファイト1発!リポビタンD」であった。
「朝、なんだかダルイなぁ~なんて思っても、ベッドのなかでリポビタンをグイッ!と1本飲んじゃう。するとすぐに元気になって、2階からトントンって階段を駆けられる。そのくらい効き目があるの」と、人にもよく話していた。

その思いは、自分ごとで終わらず、以前は熱い緑茶を入れてねぎらった配達に来る人たちにも、いつのまにか「はい、お茶替わり!」などと、リポビタンDのボトルをホイホイ手渡すようになっていた。いったい毎月、何箱のリポDを買いこんでいたのだろう。
ひょっとしたらペットのワニたちにも、タラタラとその大きな口の中に分け与えていたりして……。2匹のワニを溺愛していた、あの祖母ならやりかねないことである。

さて、とある秋の日の朝のこと。同じ町に住んでいたわたしの母が、旗日だからとお赤飯を炊いて重箱に詰め、実家の祖母の部屋を訪ねると、彼女は自室のベッドに仰向けになり、スヤスヤ朝寝をしていたという。サイドテーブルの上には、空っぽになったリポビタンDのびんがコトンと置かれていた。
「あら、庭を掃いている途中で気分でも悪くなって、いつものようにリポビタンをグイッ!と飲んで横になったのかしら…」と母は思ったのだそうである。
しかし、祖母は目を覚まさなかった。
それが、同居していた伯父一家も気づかないほど静かな、祖母の最期だった。原因不明の心停止。その夜はみんなが涙をポロポロこぼしながら、母が炊いたお赤飯をむさぼるように口の中に押し込んだ。21年前の10月10日の出来事である。

いつからか、わたしも毎朝オキヌケに、グイッ!とリポビタンDを飲むようになった。
記憶はさだかではないが、たぶん受験生だった頃、祖母に熱烈に推薦されたのがきっかけだっただろう。
いまとなっては、たしかに、オヤジ臭い。でも長年つづけた習慣は変えられない。
以前は、1本150円のレギュラーボトルを駅のキオスクで買って、左腰に手のひらを当てたまま仁王立ちになって、グビグビと飲み干していた。しかし、いまは低カロリーを優先して、1本19kcal足らずのリポビタンファインの3本450円のパックを、くすりのセイジョーでドカドカまとめ買いである。

リポを注入しないと目が覚めない。グイッ!とリポをチャージすれば朝がくる。たった5口で飲み干してしまうこの100mlこそが、わたしにとって、わかりやすい“朝のスイッチ”なのである。

しかし、ときどき、これってアルコール依存症とおなじなのでは?と思うことがある。
無闇に不安になって、悪癖とはなんとか手を切らなければと決意する。
大げさにいえば、やくざから手を引こうとか、ギャンブルから足を洗おうとか、そんな決死の覚悟で、断食ならぬ「断・リポピタン」生活に入るのだが、いつも決まって3日も持たないうちに、リポが飲みたくて飲みたくてたまらなくなるのではなく、なぜだかわからないが、キムチが食べたくて食べたくてたまらなくなってしまう。

キムチ食べたさに仕事を抜け出して、手近な焼き肉屋に飛び込んだことも1度や2度ではないだろう。
「キムチの盛り合わせ!と、ライス。あ、あと、オイキムチ!」
キムチで気持ちを落ち着かせたあとに、やっとカルビの追加注文をする気になるほどの、禁断症状……。

ふだんはそこまでキムチ好きというわけでもないので、キムチとリポビタン共通の配合成分であり、眼精疲労に効果があるといわれる「タウリン」を、なぜかカラダが異常に求める体質なのではないかと睨んでいる。
というわけで、ことリポDに関するかぎり、わたしはヤクを止められずに何度も逮捕されつづけるタレントなのである。

祖母も同じだったのだろうか。
彼女に欠乏していたものは何だろう。
原材料はと見ると、タウリン、イノシトール、ニコチン酸アミド、ビタミンB1硝酸塩、ビタミンB2リン酸エステル、ビタミンB6 、無水カフェイン…。
この配合のどこにいったい、寝ぼけた心身に無限のパワーをみなぎらせる力が潜んでいるのであろうか。

そういえば、先日帰省したとき、驚いたことがある。
以前から、リポDに懐疑的であったわが母が、祖母とひきうつしのやさしい声色で
「はい、お茶替わり!」と笑いながら、宅配便のお兄さんにリポビタンDを差し出していたのである。
こっそりと母の戸棚のなかを見ると、買いだめしたリポDの箱が山積みされているのであった。
母は、祖母やわたしのような依存症ではないし、むしろ依存症はよくないわよ的なことをしょっちゅう口にしている。しかし、どこかでそっと、わたしと祖母のリポDをリスペクトしてくれていたのである。

祖母は、声のきれいな人で、芸者さんたちから「おねえさん、おねえさん」と慕われていた。
肌が白くて、持ち歌は「芸者ワルツ」で、決断が早くて、いつもだれかの相談に乗っていた。
「おばあちゃん、わたしリポビタンを飲まないと禁断症状が出るの。毎朝グイッ!っと飲まずにはいられないの。これっていい?よくない?どっち?」と相談したら、彼女はいったいなんと言うだろうか。
おそらく、彼女はどちらか答えを出したりはしない。
「女の子はファイト一発!だよ」みたいなことを、おおらかな笑顔で言うだろう。

そんなことを考えていたら、6年ぶりの体育の日である10月10日が、いつのまにか終わっていた。

♯27 YURI wrote:2011/10/10


未練はない、ゴー!
♯7 wrote::2010/10/31

忘れんぼクイーン。
♯6 wrote::2010/10/24

ごめんくだシャイ。
♯5 wrote:2010/10/16

鰐とおばあちゃん。
♯4 wrote:2010/10/04