先週、仕事で京都へ行った。早朝からの撮影を終えて、南禅寺の周囲をぶらぶら歩いていると、川の向こうの建物の外壁に「疏水(そすい)」の二文字が掲げられているのが見えた。
これは、安積疏水によって発展した郡山市の歴史を知る人間には、見過ごせない二文字である。
建物まで行ってみると、正式名称は「琵琶湖疏水記念館」だ。なるほど!と、中に入るとビデオが流されている。ここはしっかり見ようと最前列に腰掛ける。
どうやら、琵琶湖から流れ込む第一疏水と第二疏水が、ここ蹴上(けあげ)の地で合流しているらしい。
ビデオは途中から、思いきり時代を遡って、疏水建設時の物語になっていく。
構想したのは、京都府知事・北垣国道。琵琶湖からの水力を、遷都で衰退した京都復興の原動力にしようと考えた彼は、1人の男を呼び寄せた。男の名は南一郎平。その年、明治15(1882)年に完成したばかりの安積疏水の陣頭指揮をとった彼に、工事が可能かどうかの判断を委ねたのである。安積野を離れて30日間の現地調査を終えた一郎平の答えは「いける!」であった。
このゴーサインにより、計画は一気に加速。莫大な資金が試算されたが、一致団結した府民の寄付で、不足分は賄われたという。
8年後、日本一の長さのトンネル掘削を含む難工事は無事完成。京都は飲み水、工場、日本初の水力発電所を得て、その電力を使った市電も走り始める。
古都に活気を蘇らせたこの画期的なプロジェクトは、1人の男の先見の明のある意見書から始まったのである。経験者による「いける!」が、京都の人たちにどれほどの勇気を与えたかわからない。
犬も歩けば棒に当たる。思いがけず、安積疏水と琵琶湖疏水の因縁の物語に出会ってしまった。
=2016年12月20日掲載=