何がきっかけでその話題になったのか。先日、中年男性数人のクルマ談義に加わった。場所は、日本橋にある食品会社の会議室。
車検で代車を運転したら、慣れなくて怖かったなどという話の後で、口を開いた得意先のAさんが「僕のこだわりは、最小回転半径なんです」と言った。
Aさんによると、交通量の多い国道からほぼUターンするようにして侵入する枝道の先にご自宅があるそうで、「クルマの買い替え時にはカタログを取り寄せて、最小回転半径で選ぶんです」と首をすくめた。
「いたのか、こんなところに!」と叫び出しそうになった言葉を、わたしはゴグンと飲み込んだ。
20代の頃、広告会社の駆け出しコピーライターだったわたしの担当は、新車のカタログを書くこと。女性の書き手には、軽自動車や1000㏄ちょいの街乗り車の仕事が次々に回ってきた。
得意先の自動車メーカーはカタログの中に「日本一」や「世界初」など、パンチの効いた言葉を盛り込みたがった。そんな時、小柄なクルマを救ってくれたのが、最小回転半径だ。
最小回転半径とは、ハンドルを最大限に切った状態で旋回した時に、一番外側のタイヤが描く円の半径のこと。クルマの小回りの良さの目安である。開発チームの努力のおかげで、新車が出るたびにわたしは「最小回転半径、日本最小!」とうたいあげ、担当したカタログの面目を保った。
だが、馬力や燃費じゃあるまいし、半径なんかでほんとに食いついてもらえるのかな、という疑念は消えなかった。なぜって「半径で選びました!」というユーザーの声を、一度も聞かずじまいだったから。
打ち合わせが終わると、エレベーターまで送ってくれたAさんが「今日はありがとうございました」と頭を下げた。
いえ、いえ、それはこちらのセリフ。わたしはとうとうこの耳で、生のユーザーの声を聞いたのである。35年も経って。
=2023年9月8日掲載=