先日、仲間とカラオケに行った。仕事の打ち上げである。ふいに、ひとつの曲が耳の奥で響き始め、二十数年ぶりに歌ってみたい!という衝動に襲われた。
それは、最初に勤めた会社の上司、Hさんの結婚披露宴で歌った曲。
場所は、赤坂の有名ホテル。主賓は、得意先の自動車会社の重鎮。職場をあげての接待的祝宴だった。
社員代表として歌うことになったわたしは、失敗の許されない大役に、猛練習して当日に臨んだ。
その歌はHさん夫妻に捧げたつもりだった。だからそれ以来、一度も口にしたことがない。
しかし、久しぶりにあの曲が歌いたい!という得体の知れない誘惑は強かった。曲名を入力して、マイクを握る。歌い出しは順調。みんなも笑顔である。
やがて、間奏に入ると予期せぬ事態が起きた。
「Hさん、K子さん、おめでとうございます。おふたりの幸せを祈って、いつもの鉛筆をマイクに持ち替えて歌います!」あの日のせりふがそのまま、口をついて出てきたのである。
「ゆりさん、怖い…。Hさんってだれ?」と、若手のMちゃんがおびえた顔で言った。
意外な展開にあわてたが、こうなったら最後まで歌い切るしかない。
後奏が始まると、またスラスラ挨拶が出る。
「おふたりに捧げる、オンリーマイラブ!」
まるで、パブロフの犬である。仕事は体で覚えろと教わった。今の挨拶はまさに、悲しいほど忠実な、条件反射だった。
この場違いな状況を、説明する言葉が見つからなくて、わたしはしばらく、石になっていた。
=2013年6月4日掲載=