8月の上旬は暑かった。関東北部と東北南部では、猛暑日の連続記録を更新した市町村も多かったという。
そんな8月の猛暑日の午後、仕事で新橋の路上を歩いていると、薄紙に包まれたバラが1輪、ヌッと目の前に突き出された。
え?と、とまどっていると、半笑いの若い女性が「カラオケ店でーす。オープンなんで、配ってまーす」と声を掛けてきた。周りを見ると、道行くサラリーマンたちは「いや結構!」と差し出された花を押し戻し、返す刀で、したたる額の汗をぬぐっている。戦意喪失した半笑いの女性の顔は、直射日光を頭上から受けてほとんど能面のよう。
だが、暑さで朦朧としていたわたしは、なぜかそれを受け取ってしまっていた。正直にいえば、暑さのせいではない。バラだったからである。高温注意報の中でさえ、抵抗できないほどの特別な力が、バラにはあったのである。
受け取った1輪を、最初は片手で振り回しながら歩いていたが、突然、このままでは、あっというまに、ドライフラワーになってしまうのでは?という不安が頭をもたげた。そこで、コンビニで水のペットボトルを買って茎を挿すことにする。
一日中ずっと、バラの入ったペットボトルを捧げ持ちながら、仕事をハシゴ。夜遅く、冷房の効いた自室の花瓶に移し終えた時には、そこまでして花を保たせた自分が、いじましくてならなかった。
華やかな美しさが取りざたされるバラだが、一つの物をじっと見つめているような精神性や、人類の歴史を紐解くようなストーリー性も秘めている。
深夜、自室に漂ってきたほのかな香りは、今日の独り相撲のドタバタを受け流し、優しく叱ってくれるようだった。
=2015年9月1日掲載=