穏やかだった今年の幕開け。だがその日は珍しく、どんよりと曇っていた。
わたしは知人のお見舞いの帰り、初めての道を、てらてらと車を走らせていた。畑の真ん中を通る東京郊外の一本道である。と、何の前触れもなく、雲の切れ間から一筋の光が差し込み、その先端がオーロラのように放射状に伸びて、乾いた冬の畑をまばゆいばかりの黄金色に染めた。
まるで何者かが啓示でも与えたがっている…。そんな荘厳な光に、わたしは、あぁ、神様は、いる!と、声に出してしまった。心の中でイメージしたのはなぜか、天にしろしめす、西洋の神様の姿だった。
その翌日、わたしは昨日の事をすっかり忘れて、神楽坂にある毘沙門天の境内に立っていた。たまたま通り掛かったので、新年のご挨拶でもと思ったのだ。ふと、掲示されたポスターを見ると、そこ鎮護山善国寺の毘沙門様は、人気のある「新宿山ノ手七福神」のメンバーらしい。
お正月の七福神巡りがブームになっているとは聞いていた。だが、御朱印集めがスタンプラリーのように盛り上がっている光景を見るのは、初めて。
行列から出て来た女性グループに話し掛けてみると、前日は、吉祥寺周辺の「武蔵野吉祥七福神」を巡ったそうで、ぎゅうぎゅう詰めの周遊バスが運行されていたという。明日は下町の「谷中七福神」を回る予定との事。300円したという毘沙門様のフィギュアを見せてもらって、愉快な気分でお寺を後にした。
新年早々、日替わりランチじゃあるまいし、昨日は洋風、今日は和風の神様との遭遇である。
わたしたちには(少なくともわたしには)心の中に何人もの神様がいる。
キナ臭い宗教紛争を主導する原理主義者に言わせれば、そんなの本当の神様ではない!と、叱られてしまうのだろうか。
=2016年1月19日掲載=