世界各国で、新型コロナワクチンの接種がスタートした。しかしまだまだ、感染症が収束する兆(きざ)しは、見えてこない。
感染者は増加する一方だし、医療現場は日々、ひっ迫の度を増している。感染力が高いという海外からの変異ウイルスも心配だ。
渋谷のスクランブル交差点がもぬけのからになっているらしいとか、最新式の病院が稼働したとか、ワクチンすげ〜! とか、何かしら変化の兆しを感じはじめたいのが本音である。
この感じ、ベッドの中で目が冴えた夜に、せめてカーテンの隙き間から白い光だけでもこぼれてきてはくれまいかと、夜明けを待つ時の心細さにも似ている。
考えてみれば、われわれの日常は、ささやかな兆しを感知することで成り立っているのかも。茶柱が立ったり、信号が全部青だったり、レシートの合計にゾロ目が出たり…(うむ、これは兆しか?)。はたまた、他人のビミョーな表情の変化だったり、掛けられる言葉の端々だったり…。
わたしたちはあらゆる瞬間に、無意識のセンサーを全開にして、「変化の兆し」を感じ取る。おぼつかない手がかりを、おっかなびっくり拾い集めて、一歩先に進もうとする。
その点、自然が差し出すサインは、解釈不要でシンプルだ。
シベリア高気圧が発達した大寒のこの季節でも、春の兆しを探せば、案外簡単に見つけることができる。
事実、氷点下だった今週の早朝、ランニングコースの脇のロウバイの木は、すでに固いつぼみをつけていた。幾重にも重なる黄色い花びらの中の空洞に、ふくよかな春が早くも待機中。
メジロがやって来て花の蜜をつつくのが先か、感染者減少が先か。
変化の兆しを心待ちにする、厳冬の日々である。
=2021年1月22日掲載=