今年のノーベル賞が発表された。物理学賞の快挙もさることながら、平和賞の17才、パキスタンのマララさんが、話題である。
2年前、女子教育に反対するイスラム過激派から頭部を銃撃されたが、現在は快復。英国で学んでいる。
欧米の大人に利用されているだけだという、うがった見方も否定はできない。
だが、女子でも学びたいと訴える彼女の言葉には、リアリティがある。
実際、日本でも一世代前は、学びの男女格差が歴然と存在していた。だがこの国で「女のくせに学ぶな」はいつしか「死語」になった。世の中は少しずつだが、すてきな方に動いているのだ。
わたしが最後に、この無謀な言葉を投げ付けられたのも、20年くらい前の事だ。
仕事から終電で帰宅中、乗り換え駅の三軒茶屋のベンチで本を読んでいた。と、デロンデロンに酔った男が「女のくせに本なんか読むんじゃねー」と、からんできた。
わたしは奪い取られた本を取り返し「うるさーい」と、その男の頬を平手打ち…しかけて、空振りした。「おぉこえー」と退散するその人。
それが、記憶に残る最後の「女のくせに学ぶな」体験だ。からかいが、思わず口を突いて出ただけかもしれない。だが、言葉は心の深部の照射である。
学びについての言葉と言えば、アラゴンの「学ぶとは、誠実を胸に刻むこと」が有名。確かに、学びを通して、人は謙虚さを身に付け、色眼鏡を脱ぎ捨てる。勉強には「答え合わせ」があるが、学びにはそれがない。
オープンな態度で、マニュアルには書かれていない物事の本質をつかむこと。それが学びかもしれない。
マララさんは、性別の壁を超えて、学び続けるだろう。
さて、わたしたちは、もう一つ確かに存在している壁、年齢に負けず、学び続ける事ができるだろうか。
=2014年10月21日掲載=