先日、都内の伝統工芸士を訪ねてインタビューする仕事があった。浮世絵や染め物や江戸切子の職人さんが、何代も前から同じ場所で同じ仕事を続けている作業場。どなたも飄々(ひょうひょう)として自然体。まるで呼吸するかのように手仕事に勤しんでいた。
後継者問題で頭を抱えている伝統工芸の世界だが、幸い、今回の取材先でそのような話題は出なかった。息子さんが跡を継いだ江戸切子の職人の方が「手取り足取り教えたわけでもないのにさー。息子はこの仕事を始めたとたんに難しい技ができちゃって、驚いたよ」とサラリと語ったのが印象的だった。へ、それって「場」の力じゃないの?
さて、話は変わるが、半年程前から仕事の前に朝ランをしている。毎朝30分程、近所にある高校の通学路をトコトコ走る。校門から丘を登るように回り込んで昇降口に至る500メートルほどの桜並木の坂道が、近隣住民の貴重なランニングコースになっているのである。
たまに遅く出掛けると、野球部のダッシュの時間と重なって悲惨な目に合う。挨拶をくれる野球部員の「オッス!」に対して「おはよう!」、「オッス!」に対して「おはよう!」を延々と人数分繰り返して、息も絶え絶え…。
それにしても、われながら苦手な朝ランが半年も続いているのはなぜだろう。これも「場」のせい?などと思ったり。
父が長い間、県内の高校に勤めていたので、小さい頃からお弁当を届けに行ったり、頻繁に学校の敷地に出入りしていた。慣れ親しんだ高校の持つ「場」の力が、福島の言葉でいう、心の「たごまり」を解(ほど)いてくれているのかもしれない。
職人さんの跡継ぎの話でも感じた事だが、「場」に積み重ねられた時間の地層が、目には見えないエネルギーの粒となって、後人のささやかな頑張りを後押ししている?
ふと、そんなことを考えた。
=2017年5月26日掲載=