今月初旬、日本橋で仕事を終えて、通りから1本裏に入ると、スマホをかざす人たちが道をふさいでいる。
見ると、桃色の花をまとった並木が満開。この筋だけがいきなり、春の設(しつら)えだ。隣で撮影している女性に「これ、河津桜ですか?」と聞くと、「オカメ桜っていうみたい」と教えられた。
確かに桜の幹には「オカメ桜」という名札が。「へぇ、桜もいろいろですねぇ〜」と、感心し合う。
この数年、2月に入ると、河津桜や熱海桜など、早咲きの桜の話題をよく見聞きするようになった。だが、それは静岡県限定?の話で、まさか3月の初めに都心でこんな光景が見られようとは思ってもいなかった。
ゆっくりと歩きながら、そういえば、わたしたちは人間の事を早咲きの桜に例えたりもするなぁ〜などと考える。若ければ良いといった感じで、10代のアーティストや小説家を持てはやす事も、日常茶飯事。
だが、わたしが今気になっているのは、むしろ遅咲きの桜の豊かさである。
45才で医学部に入学した友人のAさん。75才で初めて刺繍針を絵筆に持ち替えて旧き良きアメリカの農村風景を描いた画家グランマ・モーゼス。そうそう、わが日本にも92才で詩を作り始めた心の詩人、柴田トヨさんがいたっけ。遅咲きの桜もまた、逞しく美しいのである。
そんなことを考えながら、オカメ桜に目をやると、早咲きとはいえ、やはり桜は桜。気持ちのトゲトゲが、すーっと抜けていく。
他の花が太陽を向いて咲くのに反して、桜は、下を向いて花を咲かすから、人を優しく包み込むのだと聞いたことがある。
その論法でいえば、寂しい現代人は一刻も早く、ひと時の癒しを得たくて、早咲きの桜を追い求めるのかもしれない。
=2017年3月21日掲載=