この時期、打ち合わせ前の雑談タイムは、正月話に花が咲く。
ニューヨークを久々に訪ねた仕事仲間の一人は、部屋の窓を開けても貿易センターがそびえてないんだよ、それが寂しくてさ~などと言う。
調子よく相づちを打ちたい気持ちは山々だが、広告マンなら誰もが憧れるニューヨークへの渡航運が、なぜかわたしにはゼロ。だからと言うわけではないが、へえ~、ふ~ん、などと、生返事で話を聞く。
とはいえ、堂々と存在していたであろう貿易センターの不在を悲しむ気持ちは、そんなわたしにも想像できる。
例えば今銀座へ行くと、華やかだった日産ギャラリーがガラ〜ンと消えた4丁目や、松坂屋がスコ~ンと抜けた5丁目に出くわす。
当たり前のようにそこにあった物が、神隠しに合ったかのような様子を目の当たりにすると、やはり、寂しさに襲われてしまう。
人は、何気なく身近にあった物がこつ然と姿を消すことに慣れていないのだ。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。ご存知「方丈記」の一節だが、戦乱、大火、竜巻、飢饉、大地震等、ありとあらゆる人災と天災に見舞われた鎌倉時代初期、作者の鴨長明の目の前からも、多くの物が、姿を消したに違いない。
世の中は、何一つ変わらないように見えて、実はすべての物がこつ然と、そしてゆるやかに、退場し続けているのである。
人間だってそう。わたしたちの細胞は、次々に寿命を終えて、5~7年後には、今あるすべての細胞が入れ替わっていると言う。
万物は退場と再登場を繰り返す。なのに、こつ然と消えた物だけを、人はしみじみと追想してしまう。
=2015年1月20日掲載=