小学生だった頃、母の日が近づくと、クラス全員に、カーネーションの造花バッジが配られた。
花びらがパリパリ音のするプラスチック製で、確か一個10円。「お母さんありがとう」と書かれたリボンとピンが付いていた。
赤い造花の中に、数個の白い造花が混じっていた。わたしのクラスではHくんと担任の二人だけが白い造花を胸に付けた。「お母さんのいる人は赤。お母さんがいないHくんと先生は白」と、先生は説明したが、いつも元気すぎるくらい元気なHくんが、その日に限ってうつむいていた。
その後、高学年になって反発心が目覚めたわたしは、赤い造花の花びらを白いクレヨンでぐりぐり塗って、おかしなピンク色に染めた。残酷な慣習に抵抗したつもりだったのか? わたしのランドセルの底から奇妙な色の造花が出てくるのを見つけた母は、「ピンク、きれいね~」などと、能天気なことを言った。
それにしてもなぜ、あのような無神経な色分けがまかり通ったのだろう。それが昭和のふつうだといえば、それまでの話だけれど……。
そうそう。小学校といえば、先々月、須賀川で母校の校歌を口ずさむ機会があった。
初めて出会う男性が名刺を差し出しながら、「私、有理さんと同じ三小の卒業生です」と言うので、ちょっとふざけて「空さわやかに?」とささやくと、その人は、「つづく山よ」とつぶやいた。「波おと清く?」とボールを投げると「流れる川よ」と返ってきた。
そんな校歌の歌詞の応酬は、もし周りにたくさん人がいなければ、もっとつづいていたかもしれない。
一学年下だったその人は今では立派な大人になって、地元の葬儀社の社長をされていた。
わたしは黒い服を着て、母の葬儀の喪主になっていた。
もうすぐ5月の第2日曜日。今年は母の日に飾る花に迷う。今さらカーネーションでもない気がするので、ガーベラにするか、アルストロメリアにするか?
どちらにしても色はピンクの一択である。
=2024年5月10日掲載=