高倉健さんが亡くなって、あの寡黙な生きざまが、男の美学のように讃えられている。でもそれは健さんだからいいのだ。「男は黙ってサッポロビール」は三船敏郎だからよかったのだ。なのに日本男性は、大きな勘違いをしてしまったようだ。
わたしは先日、大阪行きの新幹線で、痛恨のシーンを目撃した。大学生くらいの若者が手を滑らせ、網棚に乗せようとした金属製のキャリーバッグを落下させてしまった。
キャリーはわたしの隣席で中腰になっていたオジサンの頭に、まさかの命中。
ゴン!と大きな音がしたので、車両中の視線が彼の頭に集中した。だが、青年は、荷上げ作業を続行。
一方、オジサンは、怒鳴りつけるだろうというこちらの予想を裏切って、黙って腰を下ろしてしまった。
その後、チラ見を続けるわたしを尻目に、頭をこすり続けるオジサンは名古屋で、若者は京都で、それぞれ黙って下車して行った。
わたしは、ふーっとため息をついた。別に怒鳴り合いをしてほしかったわけではない。だからと言って、いくらなんでも2人とも寡黙すぎやしないか。
ギャラリーとしては、若者の勇気ある「すみません」に対して、オジサンから懐の深い言葉が出る事を期待していた。最悪、「雷でも落ちたかと思ったよ」程度のユーモアであってもよかった。沈黙よりは…。
日本の男性は、老いも若きも、ぼちぼち「沈黙=カッコイイ」の呪縛から、解き放たれるべし。グローバルになった世の中で、日本の察し合い文化は、限界に近づいているのだから…。
コントロールされた感情の下で、謝るべき時には恥ずかしがらず謝る。怒るべき時には毅然として怒る。これからは、そんな言葉の反射神経が、物を言う。
そろそろ「不器用ですから」とばかりも、言っていられないのである。
=2015年3月3日掲載=