今年も「3・11映画祭」が開催された。会場はオタクの聖地、秋葉原の北の、廃校になった区立中学校。かつて教室として使用されていたスペースで、のべ7日間、震災に向き合う28作品が、上映された。
わたしが見たのはチェルノブイリ原発から3キロ、プリチャピ町民の想いを描いた「故郷よ」。そして知識人へのインタビューをつないだ「サバイビング・プログレス(進歩の罠)」。
終演後、メード服姿の女の子が客引きを繰り広げる道を、とぼとぼ駅に向かって歩きながら、このままではダメだと心から思った。
と同時に、故郷でたくさんの人が長い間、避難生活を強いられている現実があるのに、映画を見てようやく、物事を考えるのか? と、自分自身を情けなくも思った。
痛感したのは「世代」という事である。原発を作ったのは、わたしたちの前の世代の人たちである。実際物心ついた時、原発はすでに輝かしく存在していた。
10代最後の夏休み、双葉の友だちのところに遊びに行った。「山の上に、鉄塔の先が光ってるでしょ?あれが原発だよ!」などと教えられながら、プカプカ波に浮いていた1日は、幸せな記憶の一篇である。
だが、時は流れた。今、決断の責任を持つのは、わたしたちの世代なのだ。
子供の頃、ドリフの番組は見ませんと、父親に約束させられた。昔は、テレビに限らず、あらゆる事を、大人たちが決めていた。
だが、今は違う。次の世代のために、将来を選ぶ「チャンネル権」の使い方を間違ってはいけない…。
映画の中で霊長類学者のジェーン・グドールは語った。「地球上で最も知的な生物であるはずの人間が、どうして、唯一の故郷を破壊するのでしょう?」と。
=2015年3月17日掲載=