小学生の頃、同級生の男の子が銀杏(いちょう)にかせて、ゆでダコのようにみるみる全身真っ赤になったことがある。目も開かないほどまぶたも腫れて、その後の遠足では「銀杏に近づくなよ!」と先生から厳しいお達しを受けた。
その時の記憶が強烈で、上京した当時、色づいた銀杏の下を歩きながら「銀杏にかせる人がいるんだよ」と東京出身の友人に話すと、「は? 」という顔をされた。「かせる」って何? かぶれるってこと?
う〜ん、かぶれるとは微妙に違うんだけど……と思いながら、その後、それは、口に出さない言葉になっていった。
口には出さず、心で思うだけの言葉は、他にもあって、「たごまる」も、その一つ。この時期、セーターの下に長袖のシャツを着ると、シャツだけ、肘のあたりで丸まってしまう。ああ、たごまった……と、口にはしないが、考えている。
この間も、ストールの裾を駅の床に垂らした女性がいたので「引きずってますよ! 」と、声は掛けたが、ほんとは「すりびってる」のよねと、内心では思っていた。
何かを糊で貼ってほしい時には、ココをくっつけてくれる? と口には出すが、「ねばす」の方がしっくりくるんだけどなと、考えたり。
先日、素敵な水引細工を取材した時には、丁寧な仕事ですね、といったけれど、本当は「までぃ」だよねと考えていた。心をこめて手を掛けることを「までぃ」と表現したいという感覚が、心の中にしっかりある。
最近では、無意識に方言が口をついて、「は? 」とけげんな顔をされることもなくなった。
だが、頭の中では結構忙しく、故郷の言葉と標準語が、隠れたバトルを繰り広げているのである。
どうやら、わたしの場合のDNA的ニュアンス方言のベスト5は、「かせる」「たごまる」「すりびる」「ねばす」「までぃ」あたりのようである。
=2018年11月9日掲載=